古/いにしえの面影       其の一阡参百五拾一
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年03月01日 水曜日
アップ日  2017年04月10日 月曜日
徳島県海部郡牟岐町川長(牟岐八幡神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

牟岐町(むぎちょう)
徳島県の南東の海岸沿いに位置し、室戸阿南海岸国定公園、
内妻公園、八坂八浜などで知られる町である。
断崖絶壁沿いに位置しているため、かつては土佐街道の難所であったが、
現在は改善されており、徳島県と高知県を結ぶ通過点となっている。
町の中央には牟岐川が流れており、その流域沿いには街があり、
農業が盛んである。
断崖絶壁沿いには太平洋に面しているため、
南海地震や台風による被害をたびたび受けてきた。
沖合にいくつか島を持ち、徳島県内最大の無人島大島、人の住む出羽島などがある。
大島付近には、高さ10mほどに成長した世界最大級のコブハマサンゴがあり、
千年サンゴとして親しまれている。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

牟岐川上流方向
五剣山638.5m

※下流方向~
 
徳島県師弟
有形文化財
天神社神像碑

参道~

※神社は地形的に
谷部分に鎮座されて~

鳥居と石灯籠

※扁額

寛文3年(1663)に
室町期神像彫刻の特徴がある杉材一目造りの像(57cm)
牟岐川下流に流れ着いたとか。
鞆浦のオバちゃんの話を思い出しながら~
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)の阿波・讃岐・伊予への侵攻
土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、
伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していく。
阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れて衰退していたが、
十河存保や三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗や、天正4年(1576年)の
吉良親貞の早世などもあって、当初は思うように攻略が進まなかった。
しかし天正5年(1577年)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。
天正6年(1578年)2月、元親は阿波白地城を攻め、大西覚養を討った。
また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込んだ。
阿波国では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊が激しく抵抗するが、
元親は天正7年(1579年)夏に重清城を奪って十河軍に大勝した。
康俊に対しても岩倉城に追い詰めて実子を人質にとって降伏させた。
この年には讃岐国の羽床氏なども元親の前に降伏し、
天正8年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。
(Wikipediaより)

※手水鉢
牟岐村東分


狛犬


※吽

拝殿社内には
神像の写真が~

※参道見返って~

参道脇の
井戸

※牟岐川支流

避難路に成っている路地

※大川橋

南に向いている家屋には
雨切瓦が付いています。

※橋の向こうは
西の町(浜崎)

東の町(宮田・宮ノ本)へ~

※牟岐漁港(内港)

家の裏に
山が迫っています。

※大きな楠が~

牟岐八幡宮サン

※扁額

八幡さんの楠
奈良の八幡宮より承久2年(1220)に
勧請された八幡神社さん

※樹齢は500年と推定される。

野根山二十三士の殉難
文久3年(1863年)の八月十八日の政変以後、
前藩主山内容堂により勤王党の大弾圧が行われ、
武市はじめ土佐勤王党の主要メンバーは軒並み投獄された。
勤王派志士らは武市の救出による体制の立て直しを企図し、
各地で指導的立場に立つ者が高知城下に集結して、
その方法を協議することとなった。安芸郡の指導者であった清岡は、
同志が一体となって藩庁に武市の解放を迫り、
遠隔地の安芸・幡多二郡の志士は決起して威勢を示し、
藩が要求を容れない場合は実力で獄舎を開放して、
一同で長州に脱走するべきと主張した。
しかし大石弥太郎ら多数派は、清岡の主張を過激すぎ、
また武市は救出しても長州には行かないだろうと考えて同調しなかった。
元治元年(1864年)6月、大石らは藩庁に対し正面から嘆願書を提出するが、
要求は受け入れられなかった。
同年7月26日、清岡と配下・門弟併せて23名(「野根山二十三士」)は
野根山街道の岩佐番所に武装して屯集し、武市の解放と藩政改革を訴えた。
岩佐番所は土佐三関の一つに数えられる要害の地であり、
かつ番頭・木下嘉久次は同志であった。
目的が達せられない場合は国境を越え、海路にて京坂に向かい、
禁門の変直後の京都において国事に尽力する計画であった。
野根山屯集の知らせは高知城下を大いに震撼させた。
藩庁はこの行動を反乱とみなして強硬策を採ることとし、
大監察・小笠原唯八率いる藩兵を派遣して鎮圧に向かった。
これに対し清岡らは戦火を交えることなく阿波国へ逃れるが、
海路での逃走には失敗し、阿波藩によって藩庁に引き渡された。
再び野根山を越え9月3日に田野奉行所に収容され、2日後の9月5日、
一切の取り調べもなされぬまま、奈半利川河原にて全員が斬首された。
(Wikipediaより)

23士は生田家に留め置かれたと~

※百度石

狛犬


※吽
手水舎
後ろの立派な石垣~

※撮影していると~
『御神体見てみるか?』と
お声を掛けて頂き…

えっ?
拝殿社内に~
いつもの様に、付近の町の印象や立派な神社の話をしてたら~
御神体を見せたろか!と…
「エエんですか?』と私
『大丈夫や!』と~
「ホンマですか神主さんに了解取らんと…」
『私が神主や!』
「汗~~~」
「絵馬や鏡を見せて頂いたのは有りますが、御神体は初めてですわ」


※拝殿社内部

旧社殿木材

※色んな資料が~

唐人像これは?
と伺えば
友人の漁師さんが沖で網に掛かり
手に余って奉納されたとか…
私は、これが良いかと~

本殿舎の鍵を開けられて~

※あれれ…
厨子に収まられた
官女を率いた貴族様?
菅原道真さんみたいな~~

御顔が・・・残念!
紀州加太の淡嶋神社サンからの
流し雛では?なんて~

※『県は資金がないので調査は進まん』と~
「TVの鑑定団に出されたら…」
『売らんで!』
なんて笑いましたが~

本殿舎袖壁
龍ではなくて鯉ですね。
登り鯉

※下り鯉

本殿舎から拝殿社
いつもと反対の風景~

※菊瓦

鯱鉾(鳥衾?)

※本殿舎
蟇股

左大臣
三公:日本では、律令制における太政官の長である
太政大臣、左大臣、右大臣のことを指す。
のちに右大臣の下に内大臣が置かれると、
常任の官ではない太政大臣を外して、
左大臣、右大臣、内大臣のことを指す例もあらわれたが、
江戸時代に禁中並公家諸法度が制定されると
内大臣を含まず太政大臣を含むものと定義付けられた。
(Wikipediaより)

※右大臣

社殿内狛犬


※吽

拝殿新築碑

本殿舎脇から~

※蟇股
飾りは菊
社紋は三つ巴

瓦が見たかったなぁ~

※風で飛ぶのでしょうか?

本瓦~

※下から~
丸八は八幡宮の証?

本殿舎反対側から~

※本殿舎裏側

明治100年記念
八幡神社改築寄付者

※国旗掲揚台奉納碑
昭和59年

拝殿正面
懸魚は鳳凰
蟇股は虎
海沿いだから龍と思ったんですが~

※本瓦
ありゃ~

拝殿社脇に

※合祀されています。

摂社 猿田彦神社サン

※扁額

多くの摂社も~

※奉納馬

神馬舎

※木彫の馬
前には

境内南西角高台に
もう一社摂社が~
狛犬


※吽

本殿舎

※街を見下ろして~

港も見守って~
沖には出羽島

※西の町方面

エエもん見せていただき
ありがとうございます。
何時迄も御神体を
お守りしてくださいね。
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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