古/いにしえの面影       其の一阡参百九拾三
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2016年10月24日 月曜日
アップ日  2019年03月11日 月曜日
大阪府東大阪市菱屋東(菱屋東八剣神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
草薙剣(くさなぎのつるぎ)の旧名で、古事記では草那藝之大刀と記される。
記紀神話では須佐之男命が出雲・
簸川上(ひのかわかみ、現島根県安来地方の中国山地側、奥出雲町)で
倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣。後、ヤマトタケルノミコトが譲り受け、
移動中、周りを火で囲まれたとき、姫を守るため自らの周りの草を薙ぎ、
火打石で草を焼いたとき帯刀していたことから予定調和の剣とされる。
静岡県「焼津」の地名はこのとき草を焼いたことによる。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

懐かしいなぁ~
文化住宅



河内街道

※暗がり越奈良街道
  河内街道と
暗がり越奈良街道との交差点

※近くは前に

東西南北の交差点
河内街道
かつて江戸時代には枚方道と呼ばれていたようであるが、
はっきりとした街道として認識されていたわけではなく、
集落同士をつなぐ道が一本となって繋がっていたのが実態だった。
(暗越奈良街道との交点にある石標にも途中の四条畷までしか表示されていない。)
明治時代になって 「北河内郡枚方町大字伊加賀の国道第2号路線より起こり、
中河内郡竜華村大字植松の八尾停車場敷地界に至る」 河内街道と記されるようになった。
現在の河内街道の道筋は、北から大阪府道21号八尾枚方線、国道170号(部分)、
大阪府道160号四條畷停車場線、大阪府道162号大東四條畷線、大阪府道21号八尾枚方線、
大阪府道178号八尾停車場線に沿っており、継ぎはぎという印象を受ける。
(ただし、前述のとおり、旧街道はほぼ一本道として繋がっている。)
(Wikipediaより)


暗越奈良街道
奈良時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置された。
この時代は、防人や唐・朝鮮の外国使節もこの道を通って平城京と行き来した。
『五畿内志』では南都道と表記されている。
江戸時代には大名の参勤路にもなっており、大和郡山藩の本陣が暗峠の村におかれた。
俳人としてよく知られる松尾芭蕉が、1694年(元禄7年)、菊の節句9月9日に、
最後の旅路でこの街道を通った際に、「菊の香に くらがり越ゆる 節句かな」の句を詠んでいる。
1801年(享和元年)刊の『河内名所図会』には、「大阪より大和及び伊勢参宮道となり、
峠村には茶屋旅館多し」の記載もみられ、江戸時代後期には庶民の伊勢参宮道としても利用された。
近世までの起点は玉造で、安堂寺橋通に直結していた。
明治時代に道路元標の置かれた高麗橋東詰に起点が変更された。
玉造の東隣に位置する東成郡中道村(現・東成区中道)の村名は暗越奈良街道に由来すると言われている。
大正時代に大阪 - 奈良間に鉄道を敷設する際のルート案のひとつとして、
この街道を沿う形でケーブルカーを設置する案があった。
採用されたのは、峠の少し北側の生駒山腹に長大トンネルを掘るという案で、現在の生駒トンネルとなった。
現在は国道308号および大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線がこの街道をほぼそのまま踏襲している。
(Wikipediaより)


菱屋東地車格納庫
 菱屋西は
前に~

※直ぐ 石切・瓢箪山・奈良
左 住道四條畷

菱屋東八剣神社サン正面

※草薙関係の神社は近くに~
01 02 03

奥のは
左 いせ おかげ
右 大坂

手前のは
左 大坂
右 瓢箪(絵です)山

右 瓢箪(絵)山
右 鳴川山役行者千光寺(奈良県生駒郡平群町鳴川)

※おかげ 左 いせ

右 天保期の石標
中央 長堀石工名
左 大坂炭屋町

※右 菱屋東
左 読めない…

東向きの
拝殿舎正面

※放出の阿遅速雄神社は
まだまださんとの出会いでもあります。

01 02
 

狛犬(狐)



大きめです~

※手水鉢

覆い屋

※飾り瓦と


 クロガネモチですかね?

※落雷の跡
此処にも神様が~

よっぽど危ない場所と見えて~

※菱屋東新田(大和川跡)

八剣橋( はちけんばし)の遺構

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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