|
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや! (by UFO先生)
1445年当時は、海陽町から神戸まで、盛んに船が往来していた。
積荷は木材である。なぜこのような遠い所から京都まで、
木材のような大きな物を運んだのだろうか。
それは、日本では、室町中期まで植林が行われず、浪費するばかりで、
木がなくなってしまったことによる。
南北朝の動乱で、京都・畿内近国は戦場と化し、森林資源の浪費に拍車をかけた。
京都五山の造営が始まった頃には、畿内の森林は伐り尽くされ、
用材は遠隔地の山奥へと求められた。
しかし、大木があるだけでは伐り出しても運べない。
海に近いか、いかだ流しができる大河川の流域沿いであることが必須である。
その結果、東山道の美濃・飛騨と、南海道の阿波・土佐が選ばれた。
「兵庫北関入船納帳」によれば、
由良(淡路島)1万1640石、海部(阿波)9450石
宍喰(阿波)2460石、平島(阿波)1865石
牟岐(阿波)1690石、橘(阿波)430石
由良の木材も、他の史料で、阿波方面の物資を扱っていたことがわかっているので、阿波産であろう。
室町中期の阿波は、年間2万8千石以上の木材を畿内地方に搬出していた。
そして、海部と宍喰、つまり現海陽町だけで、
1445年、兵庫北関通過の阿波産木材の約半数になるのである。
しかし、南国の木材は成長が早いために、木質が粗く、珍重されたのは木曾材だった。
(Wikipediaより)
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
|