古/いにしえの面影       其の一阡参百壱拾八
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年02月28日 火曜日
アップ日  2017年03月17日 金曜日
高知県香南市夜須町手結山(震洋隊慰霊碑)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器。特攻艇。
1944年10月下旬レイテ沖海戦に投入された神風特別攻撃隊より半年以上前に
本特攻兵器の開発は始まっていた。
小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、
搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。
「震洋」の名称は、特攻部長大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したもの。
秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)、○四兵器。
マルレと合わせて○ハとも呼ばれた。
2人乗りのタイプには機銃1~2丁が搭載され、指揮官艇として使用された。
戦争末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために2発のロケット弾が搭載された。

第128震洋隊 高知県手結 爆発事故で111名死亡(昭和20年8月16日)
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

道の駅から2km程、東の
土佐東街道(R55)信号を左に~

※住吉海岸入口に~

震洋殉国慰霊塔が有ります。

※朽ちてますが
何の部品でしょうか?




 日本本土決戦時には、入り江の奥の洞窟などから出撃することが計画され、
日本各地の沿岸に基地が作られた。長崎県川棚に訓練基地跡が残る。
終戦後の1945年8月16日、高知県で第128震洋隊に出撃命令が下され、
準備中に爆発事故が起こり111名が死亡した。戦後、その現場には震洋隊殉国慰霊塔が建設された。

終戦の玉音放送後に出撃命令が出されたが、これは司令部の少佐が配下の部隊に独断で命令したため。
第132震洋隊長渡邊國雄中尉は「それは少佐殿個人の考えですか。それとも司令の命令ですか。
司令の命令ならともかく何の連絡も受けていませんので今日のところはお引き取り下さい」と
言い出撃せず、隊員らにも「無駄死にするな。
その力を新日本再建のために最大限努力するのが唯一の道ではないか」と諭した。
同様の事は第一三四震洋隊長半谷達哉中尉も行った。
彼らが暴走しなかったのは慶応大学卒の一般大学出身で軍隊以外の社会を知っていたからと言われ、
隊員のその後の面倒も見ている。
(Wikipediaより)



 我が子より若い子の命が~
辛いなぁ。。

潜水艦のことかと思いましたが~

※軍部個人の暴走として
受け止められていますが…

未来永劫の世界平和を祈って

海上自衛隊
護衛艦のしろ錨

※集落方面~

東側に住吉神社サン
参道~

※扁額

隧道完成記念奉納
狛犬


※吽


※ボチボチ日が昇ってきました。

拝殿社正面から~



大正期の狛犬
関東風ですね~


※吽

本殿舎

※裏門
自動車参拝は、こちらから~

桜の花弁のような手水鉢

※盃状穴でもないでしょうか?

遠く室戸岬が霞みます。

※住吉の漁港

遠く浦戸大橋ですかね?



神社周りを少し~



漁港の方へ~



静かな漁港に
戦争の遺産が~

※新しそうな家屋が~




夜須方面



手結岬燈台
ん?向うに雪山
方向的に石槌山
前に

※上人が鼻碑
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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