古/いにしえの面影       其の一阡参百壱拾
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年02月27日 月曜日
アップ日  2017年03月15日 水曜日
徳島県三好市井川町辻Ⅱ(楠神社)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

吉野川(よしのがわ)は、一級水系である吉野川水系の本川で、
高知県および徳島県を流れる幹川流路延長194 km、流域面積3,750 km2の河川である。
最長川幅は荒川の2,537 mに次いで広く、2,380 mである。
日本三大暴れ川の1つとして数えられ、
利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と並び四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ
(順位争いで「四国次(二)郎」といわれることもある)。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

美濃田大橋
橋長 184m
完成年 昭和34年
上部工形式 吊橋
古めかしい鉄筋コンクリートの塔柱の間に、
赤いトラス構造とアイスグレーの側道橋が、
吉野川の清流に影を映している。
吉野川に架かる吊橋の中で、自動車の通行できる唯一の橋である。
(橋の博物館とくしまHPより)


前には

右岸の国道からの進入口に
JR踏切が~
渋滞懸念思えば…
単線で2両編成列車~
開かずの踏切には成りません。。
徳島駅側

※池田駅側

錢高組ですか~



歩道は後付け?



あれが辻渡し跡
きれいに残されてます。
元、川船港
平田舟(ひらたぶね)とは、和船の一種であり、内水面を航行する船の一種。
長さ約15mから24m、横幅3mから4mの吃水の浅い川船で、船首に水押(ミオシ)があり、
船腹に根棚(ネダナ)・上棚(ウワダナ)の二枚棚、船尾にモギ・袖艫(ソデトモ)を持つセイジ(船室)があった。
大きな帆柱を持ち、主に帆走したが、流れの速い上りの場合曳船によって運航することもあった。
高瀬舟より大きく五大力船より小さい。平田船・平駄船・比良太舟等とも書かれる。

東北 - 北上川流域等で米などの輸送に用いられた。
関東 - 利根川上・中流域、荒川・新河岸川等で用いられ、利根川上中流域のものを「上州?」、
荒川流域のものを「川越?」と呼んだ。
また、浅い川を航行できる点を生かし、海産物を市場に水揚げする際の艀として利用された。
四国 - 吉野川で下りは薪、木炭、煙草、藍玉を、上りで塩、米、麦、雑貨等を運搬した。



梅が満開~
高瀬舟が置かれています。

※木造船
(和舟ですね)

左岸側

※ん?

史跡 辻渡し跡
東みよし町昼間と三好市辻を結ぶ渡であった
 江戸時代末期頃~昭和34年

※ん?橋下では
深浅測量中~

工場?学校?と思えば、
特養だそうで~

※踏切あり
歩行者・自転車
標識もコナレて~

数多くの奇岩や巨岩のある景勝地として名高い美濃田の渕では、
阿波刻み煙草の全盛時、ここに舟を浮べ清酒を酌み交わしながら
漢詩を詠む優雅な遊びが行われていました。
財力が文化を生むんですね。

※今では発電所が…
松尾川ダム(まつおがわダム)は、徳島県三好市、吉野川水系松尾川に建設されたダム。
春ノ木尾ダム(はるのきおダム)ともいう。高さ67メートルの重力式コンクリートダムで、
四国電力の発電用ダムである。
同社の水力発電所・松尾川第一発電所・松尾川第二発電所に送水し、
合計最大4万2,200キロワットの電力を発生する。
松尾川第一・第二発電所には、出力約2万キロワットのペルトン水車発電機が
それぞれ1台ずつ設置されている。
当時の日本としては大容量の水車発電機であり
とりわけ特筆すべきはAFC(自動周波数調整装置)を日本で初めて導入した点である。
電力系統の周波数は需要(負荷)と供給(発電)とのバランスを維持しなければ安定しない。
もし、これが崩れると周波数が変動し、工場の操業などに悪影響を及ぼす。
発電所の出力を自動で調整し、電力系統の周波数を安定化するAFCは、
大容量水力発電所や火力発電所には必須のものとして、日本全国の発電所に普及していった。
(Wikipediaより)


吊橋を挟んで
上流部と下流部に歩道が有ります。

※国道跨いだ吊橋のワイヤー保持部を
守るように楠神社が~

参道正面から~

※本殿舎

明治42年銘

※書き慣れた文字ですが…

一の鳥居



四国青石の石燈籠


 
R192(伊予街道)を見守って~

※寺内 正毅(てらうち まさたけ、
嘉永5年2月5日(1852年2月24日) - 大正8年(1919年)11月3日)は、
日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。
書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。
明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、
第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。
以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。
その後、曾禰荒助の後任として韓国統監に就任し、日本への併合を推し進めた。
韓国併合後は朝鮮総督に就任した。のちに内地に帰還すると、寺内内閣を発足させ、
内閣総理大臣を務めるとともに、外務大臣や大蔵大臣といった国務大臣を兼任した。
なお、元帥府に列せられていることから、
階級を呼称する際には元帥の称号を冠して「元帥陸軍大将」と称される。
大正5年(1916年)6月24日、元帥府に列せられる。
10月16日に総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任。
朝鮮総督としての功績を認められてのことである。
寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、
これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。
時は第一次世界大戦の最中であり、寺内は大正7年(1918年)8月2日にシベリア出兵を宣言したが、
米騒動の責任をとって9月21日に総辞職した。
(Wikipediaより)


四国独特な形の狛犬


※吽

尻尾は~

馬場儀太郎翁頌徳碑
地酒 芳水創始者

拝殿社

※懸魚は梅

神の名入り石標と
庚申塔(猿田彦神)

※お百度石
明治35年

 秋山さんは前にも

※模様は波に千鳥

本殿舎

※大きな楠も~

細かい意匠の本殿舎

※老松に鷹

踏切の警報機の音が…
2両編成の列車~

※山が迫っています。

多くの玉垣

※辻の渡し場に向かって~

大工も漆喰職人も
丁寧な仕事を~


街道から逸れて、
卯建付家屋を横目に~

国道に出る手前を~

※左に~

ガレージ

※和舟が入っていました。

辻渡し跡
右岸側

※渡船場の待合室ですかね?

向こうには
美濃田大橋

※上流側(池田側)
気持ちのよい景色

梅も見頃!



市街地より離れた場所に
飾り瓦が立派な家屋が~

※波に鶴

井内谷川

※R192沿いにも~

元女子高だった辻校
我が母は、阿波加茂分校に通ったとか~



池田向かって~
用水・水道橋
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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