古/いにしえの面影       其の一阡参百四拾一
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年03月01日 水曜日
アップ日  2017年03月31日 金曜日
高知県室戸市津呂Ⅰ (室戸岬漁港)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

室戸台風(むろとたいふう)は、1934年(昭和9年)9月21日に高知県室戸岬付近に上陸し、
京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした台風。記録的な最低気圧・最大瞬間風速を観測し、
高潮被害や強風による建物の倒壊被害によって約3000人の死者・行方不明者を出した。
枕崎台風(1945年)、伊勢湾台風(1959年)と並んで昭和の三大台風のひとつに数えられる。
人的被害は、死者2,702人、不明334人、負傷者14,994人[1]。家屋の全半壊および一部損壊92,740棟、
床上・床下浸水401,157棟、船舶の沈没・流失・破損27,594隻という被害を出した。
9月21日午前5時頃に高知県室戸岬西方に上陸。
上陸時の気圧として911.6ヘクトパスカル(684水銀柱ミリメートル)という数値を観測しているが、
これは日本の台風観測史上記録的な数値である。
台風は淡路島付近を通過し、午前8時頃に阪神間に再上陸、京都付近を経て若狭湾に出た。
台風進路右側では強風のため建造物の倒壊被害が大きく、とくに学校の木造校舎の倒壊により
児童・教員など学校関係者に多くの犠牲者が出た。
また、大阪湾岸では高潮により大きな被害が出た。京阪神地方における被害は「関西風水害」の名で呼ばれる。
大阪城公園には死者を慰霊する塔(教育塔)が建てられている。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

室津の港より約2km程
南東方向に離れた地点に~

※掘り下げられたような
室戸岬漁港(津呂港)が有ります。
 
昭和九年
海嘯襲来地点(かいしゅうしゅうらいちてん)
当初は何が来たの?状態でしたが~
よくよく考えたら~
室戸台風ですね。

当初は手で掘られたとか~

※プールのような感じでしたが~

此処も三段階の港です。
一番奥が昔からの港です。

※山裾に集落があります。

地図で見たら
小さな神社が多く見られます~
路地の向こうは第二の港

※やはり煉瓦が目に付きます、

此処にも~
煉瓦塀

※外港が見えます~
架かる橋は黒潮橋ですかね。

ケンケンが付いたカツオ釣り船~



石垣塀も~

※あちこちに煉瓦塀が見られます。

此処も大型の船は見られませんでした。



背は高いが雨切瓦が五段付いた家屋

※奥にも煉瓦塀

 路地も~

城郭のような見事な石垣

※イシグロも~

港の奥の広場~

※一段上の路地も~
此処にも煉瓦塀

上の段と下の段

※遍路道碑

何?

※津呂村~

津呂村道路元標

※紀貫之朝臣泊舟之處碑

津呂港は、野中兼山が岩礁の中の僅かな窪地を掘り上げる
難工事の末に築いた避難港で、
航海の難所である室戸岬を航行する船の海難を防ぎ、
多くの人命を救ったとされる。




野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日(1664年1月18日))は、
江戸時代初期の土佐藩家老。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから
領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。
諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。
通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。
幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。
南学の儒者でもあり、灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。
(Wikipediaより)



港を見渡して~

※右の岸壁にはモルタル吹付の岩肌

簡易郵便局

※此処も青柳裕介さんの世界ですね~

低い軒
台風がマトモですもんね。。

※雨切瓦

此処にも煉瓦塀~

※見返って~




此処にも~

※新旧の家屋~

国道の向こうは
外港



石臼~

※製材所
袖卯建も~

昭和九年颱風海嘯記念碑

※富田幸次郎題額
(とみた こうじろう、明治5年10月1日(1872年11月1日) - 昭和13年(1938年)3月23日)は
日本の新聞人、政治家、第32代衆議院議長、双川と号した。
1872年(明治5年)10月1日、高知県安芸郡川北村(現・安芸市)に生まれた。
         川北小学校を出て芸陽学舎卒業。安芸地方の教員になる。
1887年(明治20年)代末頃土陽新聞記者になり日露戦争の従軍記者に選ばれたが
         土陽新聞の内紛(中央派vs郡部派の争い)により退社。
1904年(明治37年)9月同志、岡本方俊、野中楠吉、杉駸三郎、藤戸達吾らと高知新聞を興し、
         その主筆となった。対向紙土陽新聞と筆を競いつつ次第に声望ほ高めた。
1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙に故郷の高知県から立候補して初当選。
         その後も第14回を除いて毎回当選、不敗の選挙地盤を構築する。
         党籍は憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党と
         変移しそれぞれの時期において党の重要ポストに就く。
         民政党の総務や幹事長となると党内外の取りまとめや交渉に独自の手腕を発揮した。
1931年(昭和6年)に民政党を離党し国民同盟の結成に参加したが、程なく民政党に復党、
1933年(昭和8年)党の常任顧問になった。また帝国通信社、日本高速度鋼、日本紡紙機等の各社長になる。
1936年(昭和11年)5月第32代衆議院議長に選ばれる。在職中の1938年(昭和13年)3月23日、67歳で没した。
         日本においてバスケットボールの普及と発展に尽力した富田毅郎は幸次郎の息子である。
(Wikipediaより)

大きな石碑

※背面はズンベラボン!

材木置場

※山田医院さん

此処にも煉瓦塀

※アーチが付いてます。

グーグルアースでは山田邸




※立派な石垣

昭和九年海嘯襲来地点碑
祠も~よく見たら塀は煉瓦製?

※厳重に囲まれて~

ニャンコが~



製材所脇の河川抗口

※通学路?
台風時は注意が必要~

前は外港

※学校が避難場?
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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