古/いにしえの面影       其の一阡参百壱拾四
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年02月27日 月曜日
アップ日  2017年03月16日 木曜日
高知県香南市赤岡Ⅰ(弁天通り)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

赤岡町(あかおかちょう)は、
高知県のほぼ中央に位置していた町で、
日本の市区町村の中で最も面積が小さい自治体(1.64k㎡)であったが、
2006年3月1日に香南市となり、その座を譲った。
(注:町の中心部は、分岐した香宋川の中の島状態)
赤岡の名の起こりは、
その昔、沖合から見ると一帯が赤く盛り上がった丘のように見えたことからといわれる。
古くは「丹陵」とも呼ばれ、香美郡宗我郷に属していた。
江戸時代は土佐藩領で、其の頃より商業が盛んとなり、「赤岡の市」は当時から知られていた。
市街地は太平洋に沿って隣接する旧吉川村・旧香我美町岸本、旧夜須町南部とほぼ一体化している。
特産物としてイワシの稚魚どろめが有名。
この小さな町に、小中高校、警察署、鉄道駅、銀行の支店が2つ、さらに競艇場外舟券売場がある。
(Wikipediaより)

注:UP現在、最も面積が小さい自治体は
忠岡町(3.97 k㎡)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

土佐東街道(R55)の西側から~
清酒豊能梅製品工場~
高木酒造さん

※西へ行くと~
平坦な住宅地に
神社発見!

 美宜子(みきこ)神社さん
2重の鳥居
一の鳥居(大正期)正面より

※扁額

美宜子(みきこ)神社
所在地・赤岡町253番地。
その昔・高貴の姫が、丸木をくり貫いた船で、
この地に漂着したのを浦人(漁師など海辺に住む人)らが助け手厚い看護をしたが、
その甲斐もなくなくなった。姫は自ら美宜子姫と名乗り、
浦人の真情に報いるため悲しみのないようにと誓われたという。
浦人達は舟を焼き姫を「松ヶ瀬」の砂丘に神として祀ったと伝えられている。
本殿両側の棟下に57の桐の紋章が刻まれている。(注:境内看板では75)
なお、美宜子姫の持仏という木造地蔵菩薩が併せ祀られている。
美宜子姫が漂着した所を「着きの鼻」と名づけ、町の最西端、香宗(こうそ)川の河口近くにある。
「松ヶ瀬」とも呼ばれ、終戦前までは老松が重なり合った浜辺であった。
(宇多の松原の一部とも言う)
現在の社殿は明治二十一年(1888)、現在の地に移されたと伝えている。
(高知県 塩の道HPより)


※読めない…

二の鳥居
昭和期

※拝殿舎正面

破風付きの拝殿舎

※境内風景
お百度石



2個の舟型の手水鉢が奉納されています。

※一つ目のに盃状穴が~

2個めのには無い
舟型は前に

※井戸も~
釣瓶はない。。

ん?あれは…
始めて見ました~
津波避難タワーは、浸水想定区域内にある津波避難を目的とする工作物であって、
建築物以外の工作物であるものが該当する。
建築物以外の工作物には建築基準法おいて、煙突、広告塔、高架水槽、擁壁その他
これらに類するもの等があり、一定の規模以上のもの等は建築物と同様に
(中略)
工作物の対象は広範であるため、津波避難タワーのイメージはつかみにくいが、
一般的には、柱と梁を構造とする鉄骨造などであり、上部に避難のスペースを有し、
そこに上るための階段やスロープを有するものをいう。
ただし、高層の建築物で塔状のものの名称には「タワー」という語を含んでいるものがあることから、
建築物であっても、津波避難施設あっても津波避難タワーと呼ばれている場合もある。
(Wikipediaより)


昭和橋
耐震補強工事中でした。

※香宋川
上流部
町中心部を囲んでいます。

下流部
海辺は近い

※化粧地蔵様
旅の途中で亡くなったお遍路さんや
香宋川で溺れて亡くなった子供を祀ったとか。
京都市内や京街道筋ではよく見たのですが~
01 02 03 04

屋根も地域の小学生が
空き缶収集で整備したとか
(エエ話やね~)



工事中脇から~

※和舟が~
上流から流れてきたのか?
何年前のでしょうか??

駐車場に~

※旧赤岡警察署
浦上四番崩れ(うらかみよんばんくずれ)は、現在の長崎市で江戸時代末期から
明治時代初期にかけて起きた大規模なキリスト教徒(カトリック信徒)への弾圧事件である。
1867年(慶応3年)、隠れキリシタンとして信仰を守り続け、
キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、
大量に捕縛されて拷問を受けた。
江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされたが、
このことは諸外国の激しい非難を受けた。
欧米へ赴いた遣欧使節団一行は、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、
本国に打電したことから、1873年(明治6年)にキリシタン禁制は廃止され、
1614年(慶長19年)以来259年振りに日本でキリスト教信仰が公認されることになった。
ちなみに、「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件、
「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)にキリシタンの存在が密告され捕縛された事件、
「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、
拷問を受けた事件のことである。
これより前にも「大村崩れ」など、江戸時代中期には各地でキリシタンが発見され、
処刑される事件が起こっている(1805年の「天草崩れ」もキリシタンの検挙事件であるが、
刑死者は発生していない)。
(Wikipediaより)


高木酒造さん工場脇の路地

※雨切土蔵
今回、これを見たかったんですわ!

後程確認したら
歩道橋向こうには
塩の道が~
四百年程前から香南市の海浜は一大製塩地で、
赤岡では塩市が開かれていました。
この塩を奥地に運ぶための道を「塩の道」といいました。
塩に限らず生活必需物資も運搬され、相互往来の重要な産業道でした。
今は、香美市物部町大栃~香南市赤岡町の約30kmの区間が
「塩の道」として整備されています。
「塩の道」は日本ウォーキング協会が選定した
「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選ばれています。
(塩の道の説明書より)


R55の西側(中心部)へ~
本町辺り

※屋根瓦と土佐漆喰が
目に付きます。
エエなぁ~
漆喰(しっくい)とは、瓦や石材の接着や目地の充填、壁の上塗りなどに使われる、
水酸化カルシウム(消石灰)を主成分とした建材である。
土佐漆喰
3ヶ月以上発酵させた藁と塩焼き消石灰と水を混合し、熟成させたもの。
そのため藁の成分が発色し、施工直後から紫外線で退色するまでは
薄黄~薄茶色の姿に仕上がる。練り状の製品しか存在しない。
戦後、在来工法建築とともに急速に衰退したが近年、土蔵の海鼠壁や
古民家の鏝絵などを通じて文化的に再評価されつつある。
また、漆喰の特性を生かしたタイル(漆喰タイル)も開発されている。
(Wikipediaより抜粋
)

寺尾酒造跡

※銀行設立・自由民権運動
町衆の心意気ですね。
自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、
明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。
従来の通説では1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。
それ以降薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、
不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、
1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いた。
(Wikipediaより)
勉強になるなぁ~

雨切土蔵に
キョロキョロしながら~

※ありゃ~

此処も~

※路地から呼ばれて~

路地を入った所に
ポカンとした広場…札場の辻?
えびす神社さんと大神宮さん
須留田八幡宮さんの御旅所だとか~

※道路元標は次に
本来の札場の辻も元標の場所?

えびす神社さん
狛犬

※手水鉢
盃状穴でボコボコ


鼻が欠けたんでしょうか?

※吽

此処にも井戸が~
釣瓶はない。。

※赤岡浦大庄屋 浜五郎兵衛低跡
初代浜五郎兵衛は、もと日和佐権守正儀といい、阿波国日和佐の城主であった。
主家細川氏の没落と共に所領を失い大阪で浪人中、
豊臣秀吉の家臣になった長宗我部元親と出会い、かねて懇意の間柄であったので、
勧められるままに慶長元年土佐に来た。
赤岡に住み浜五郎兵衛と改め、進歩した瀬戸内の技術を取り入れ製塩業を起こした。
「関が原の戦」後、山内一豊が土佐藩主として入国。
その時、長宗我部遺臣一領具足の「一揆」を取り鎮めた功績により、
赤岡浦大庄屋(あかおかうらおおしょうや)として町づくりを拝命した。
老年に及び二男長兵衛に相続し、阿波国蜂須賀蓬庵(家政、小六)の招きにより
三男少兵衛を連れ日和佐に帰り、隠居領五拾石を拝領した。
寛永16年(1639 )11月病死する。
その子孫は、代々浜五郎兵衛を名乗り大庄屋をうけつぎ明治に至った。
(高知県 塩の道HPより)


路地に入ると~
弁天座
えっ?お休み。。。
大正期に、この地の旦那衆が出資して建てられたとか。
当時、映画と芝居を同時にする連鎖劇が流行った。
美空ひばりを初めとする昭和の名優達が数多く公演を行った。
昭和45年の台風で大破、その後農協の集荷場となり
年に一度『絵金歌舞伎伝承会』が歌舞伎公演を行っていたとか。
2007年に復活し花道もあり、枡席や桟敷席などを構え
小さいですが、回り舞台やすっぽん。
空井戸など本格的な設備を備えた本格的な造りの芝居小屋だとか。


※鏝絵
弁天様
前には
四国凄いなぁ!

昭和45年台風第10号、国際名:アニータ〔Anita〕)は、
1970年(昭和45年)8月に発生し、西日本に被害をもたらした台風である。
特に高知県においては記録的な高潮が発生した。
高知県は21日早朝から昼頃にかけ台風の暴風域に入り、
高知市では9時00分に最大風速29.2m/s(観測史上1位)、
9時05分に最大瞬間風速54.3m/s(観測史上1位)を観測した。
また、土佐湾沿岸では異常な高潮(桂浜の検潮所では最大潮位313cm、
最大偏差235cmを記録)が発生し、さらに満潮時と重なったため、
海水は防潮堤や河川護岸を乗り越えあるいはそれを決壊してあふれ、
高知市周辺一帯に大災害をもたらした。
(Wikipediaより)

絵金歌舞伎
伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)
与右衛門は主人のため傾城高尾を殺すが、その怨霊は高尾の妹であり、
与右衛門の恋人である累にたたり、累はたちまち醜女となる。
累が醜さを発見する身売りの場が中心、土橋での累の殺し。

※伽蘿先代萩(めいぼく せんだいはぎ)は、伊達騒動を題材とした
人形浄瑠璃および歌舞伎の演目。通称「先代萩」。


絵金蔵 
高知城下を離れて町医者から弘瀬姓を買い取った後の足取りには不明な点が多いが、
慶応年間より叔母を頼って赤岡町(現・香南市)に定住し「町絵師・金蔵」を名乗り、
地元の農民や漁民に頼まれるがままに芝居絵や台提灯絵、絵馬、凧絵などを
数多く描き「絵金」の愛称で親しまれた。
この時期の猥雑、土俗的で血みどろの芝居絵は特に人気が高く、
現在も赤岡では毎年7月に各家が屏風絵を開陳する「土佐赤岡絵金祭り」が開かれている。
大政奉還の後は生まれ故郷の高知に戻るが、
1873年に中風を患い右手の自由が利かなくなったため左手で絵を描き続けた。

えっ?此処もお休み。。。

※路地見返って~

弘瀬 金蔵(ひろせ きんぞう、
文化9年10月1日(1812年11月4日) - 明治9年(1876年)3月8日)は、
江戸時代末期から明治にかけての浮世絵師。
本名は生前10回以上にわたり改名しているが一般には弘瀬金蔵の名で知られており、
高知県下を中心に絵金(えきん)の愛称で親しまれている。
幼少の折から絵の才能で城下の評判となり、16歳で江戸に行き
20歳にして土佐藩家老・桐間家の御用絵師となる。
しかし、狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことで職を解かれ
高知城下所払いの処分となり、狩野派からは破門を言い渡される。
その際、御用絵師として手がけた水墨画の多くが焼却された。
洞意が実際に贋作を描いたかどうか真相は明らかではないが、
習作として模写したものが古物商の手に渡り、
町人の身分から若くして御用絵師に取り立てられた洞意に対する
周囲の嫉妬により濡れ衣を着せられたのではないかと
洞意を擁護する意見も存在する。
(Wikipediaより抜粋)




蝋燭の光で見る祭りと
屋台などが出る祭りがあるとか~
来たいなぁ。。

※ホンダ
ドリーム号看板

雨切瓦重ねて~



台風のためでしょうか?
軒の低い建物ですね。
寺尾木材店跡



伊野忠敬測量地点
北緯33度33分
帝国陸軍陸地測量部の測量で再確認され
御影石に改められたが
(中略)
高知市江の口川下流域に
標識が浮かんでいるとか~


※又、見に行きますわ!

サッカーボールかと思いましたwくぁ!

※橫のレンガ塀に目が行きます。
絵金さんも、この辺りの路地で
和裁を教えていた叔母さんの家で
お世話になっていたとか~

昔の赤岡商家(商人)の特徴
①間口を狭く、奥行きを深くする。漆喰壁で、水切りを数段つけた土蔵造り。
②格子戸、連子窓のついた表の間には商品を少ししか置かず、
家を明るくすると「銭が貯まらない」といって、部屋は真昼でも闇に閉ざしておく。
客が来ると奥の間に次々と案内し、天窓を開け、明るくして積み上げられた商品を見せる。
③土間の通路を奥に進むと趣味をこらした中庭の築山を隔てて客殿という一棟があり、
奥の土蔵の隣に厩(馬屋)が設けてある。
物部川に沿って奥深く阿波との国境近くから馬を曳いて買い物に来る客を泊めるためである。
④遠来の客を迎えると赤岡の浜でとれた新鮮な魚の皿鉢料理で歓迎の宴が行なわれる。
⑤翌日は馬に積みきれない程の商いを果たして客を見送る。
(高知県 塩の道HPより)

※ハイポーズ!

カトリック赤岡教会

※聖ヨゼフ教会

これでも間口は狭いのでしょうか?

※赤岡本町商店街
東方面へ~

卯建の有る雨切瓦路地
段数は財産に比例すると伺いましたが…

赤岡本町商店街
東方面へ~

※4月末のドロメの時期には
賑わうんでしょうね。

見返って~

※大きな土蔵
今なら治ります!

築地路地



わざわざ石垣積んで~
神様祀られています。



駐車場には変わりはないですが~

香宋川
上流方向
川の分岐点が見える~

※下流方向
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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