古/いにしえの面影       其の一阡参百二
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年02月26日 土曜日
アップ日  2017年03月08日 水曜日
徳島県鳴門市鳴門町高島浜中(旧福永家)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

鳴門海峡
淡路島側の門崎(とさき)と四国側の孫崎とを結ぶ海峡最狭部の幅は約1.4kmで、
「中瀬」と呼ぶ浅瀬と裸島(ともに大鳴門橋の橋脚が立つ)の間の深さは約90mである。
この最狭部の北側には深さ200m、南側には深さ140mの海釜(かいふ)と呼ばれる深みがある。
海峡を挟む播磨灘と紀伊水道の間の潮時差がほぼ正反対で、両水域の潮位差は大潮の時で
1.5mにも及ぶことから、最大流速は11kt (20km/h)になる。
これは日本国内で最も速い潮流である。
有名な鳴門の渦潮はこの最狭部の下流側に現れ、大きいものでは直径15mにもなる 。
海峡は主要航路ではあるが可航幅が約500mと狭く、強流時などには通峡を見合わせて
潮止まりを待つように、徳島海上保安部が船舶に注意を促している 。
2002年から2006年の5年間で裁決のあった海難事故は15件で、そのうち8件は大鳴門橋直下で、
うち5件は強潮流による圧流や操船不能などが原因となっている。
渦潮を間近で見るための観潮船が淡路島側と鳴門側から運航されている。
この最狭部に架けられている大鳴門橋にも遊歩道「渦の道」が設けられていて、
真上から渦潮を観察できるようになっている。
鳴門海峡(大鳴門)の西側には小鳴門海峡
(小鳴門・撫養の瀬戸 - 四国本島と大毛島・島田島の間の延長8km、最狭部の幅110mの水路状)がある。
自動車専用道路である大鳴門橋の架橋から10年後の1995年(平成7年)、
唯一残っていた淡路フェリーボートの阿那賀~亀浦航路が休止され、
その後廃止されたため、原動機付自転車等は渡海できなくなった。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

海上には観潮船
橋上空には撮影ヘリ
帰宅後、夕刊に載ってました。

沢山の方が載っていますね。

※高校時分に
この近くで浜辺にテント張って
四国キャンピングツーリングしました。

あの突堤は亀浦港
阿那賀港では15時間
フェリーを待った思い出も…

※鳴門スカイライン
からウチノ海望む
鏡島~海上は釣り用の筏?

小鳴門新橋から
小鳴門海峡望む

※海面が川のように~
この辺りの漁村も皆、周りたいなぁと~

小鳴門大橋を北へ~
正面は鳴門スカイラインが
尾根沿いを走っている島田島と
右は大毛島

※鳴門塩田公園着

塩田が埋まってゆくや
懐手寒し


 あの階段は何?と思えば~

※塩田公園を見下ろす展望台

この広場も塩田だったとか…

※渡ってきた小鳴門大橋

この御宅も塩田関係だった?

※本瓦が綺麗に~

ゲートボール場に成らないでね。。

※さいだじお【斎田塩】
阿波国撫養(むや)塩田(鳴門市)で生産される塩をいう。
1599‐1607年(慶長4‐12)の間に,斎田を中心とする撫養沿岸では,
徳島藩によって次々と入浜塩田が開発された。
その後も開発が進み,1644年(正保1)にはいわゆる斎田塩方12ヵ村が成立する。
江戸へ瀬戸内産塩(下り塩)が流入しはじめるのは元和(1615‐24)ころで,
当時は阿波斎田塩,播州荒井塩,同赤穂塩が主であった。
18世紀末の撫養塩田の面積は297町余,生産高132万俵余(2斗5升入り)で,
大部分が江戸売りである。
(コトバンクより)


この水位
干満の差を利用して~

※河川と言っても
海水でしょうね~

 塩田埋めて
土地区域整理
遠浅だったんでしょうか?
周りは埋立地のような地形でした。

※この水路も~

先は水門・小鳴門海峡

※水路沿いには
塩田家屋

重要文化財
福永家住宅
塩田(えんでん)は、大量の海水から水分を蒸発させ、
塩だけを取り出すために用いられる場所および施設。
日本の塩田は、歴史上すべてが前述の採鹹をおこなうためのもので、
煎熬(せんごう。煮詰めること)して塩を得るための釜があわせて設置された。
海岸におかれたこれらの施設は、古くは「塩浜」と呼ばれた。
日本語における「塩田」という言葉は、明治以降、登記上の地目として
塩浜を「塩田」といったことに始まる。
成立期には、日照時間が比較的長い地域(瀬戸内地方や能登半島など)で大きく発達した。
古くは農家の余暇の副業として自家労働によって行われ、
煮詰め用の製塩釜は多くは共同使用であった。
次第に需要が拡大し、事業規模が大きくなってくると、製塩は専業化し、
やがて一軒前とよばれる一貫生産体制を導入する大手業者が出現した。
そういった業者のもとでは、「釜屋」という鹹水を煮詰めるための
専門施設が塩戸(作業単位)ごとに1戸付属した。
技術の進歩にもかかわらず、気温が低く日照時間の短い冬場などにおける
大量生産は長らく困難であったが、枝条架装置(後述)の開発によって天候や季節、
自然現象などにある程度は左右されなくなった。
1970年代からは、イオン交換膜を用いた電気機械による製塩が主流になり、現在に至る。
(Wikipediaより)

※毎年一般公開されているそうで~

水路にカワハギ
海水ですね。

「福永家住宅」は、入浜塩田と作業場・居宅が一体となって残る全国唯一の施設です。
古来より塩づくりで栄えたまち「鳴門」の原風景をご覧ください。
(鳴門市うずしお観光協会HPより)


へぇ~
ウットリします。
カンスイ溜

※竪穴式住居のように~
立派な煙突が…

案内板

横の池が入浜式塩田跡

※石垣の右側が
落下式塩田の枝条架跡

左右の家屋共
塩納屋跡

※小さい小屋が
薪納屋
後ろが主屋

大きな屋根が
釜屋

※壁は檜皮
内部に石釜が有るそうです。

飾り瓦

※復元後はポンプで汲み入れなんですと~

右が離れ座敷
左が土蔵

※納屋の向こうに
釜屋

入浜式塩田跡
江戸時代前期頃、海水を塩田に取り込む方法として、潮の干満を利用する方法が開発された
(装置やプロセスは揚浜式と共通している)。
これにより海水を塩砂に散布する作業が省略され、大幅な労力の軽減が実現した。
塩砂の地盤は従来の海岸砂地を平坦にしただけのものもあったが、
砂の層を底から目の粗い順に3層前後敷いた人工地盤も用いられるようになった。
いち早くこの方式を導入した播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予
の塩田は「十州塩田」と総称された。
これらの地域で生産された「十州塩」は品質が高いと評価され、
上方や江戸を含めた全国各地の市場を席巻した。
この方式の導入は干満の潮位差が大きな地域に限られ、土地が海面よりもやや高く、
潮汐を利用して海水を塩田に引き入れるのが困難な土地では、従来の揚浜式塩田が残った。
入浜式塩田が導入された時期には、1塩戸の大きさは平均2町歩(約2ヘクタール)前後に拡大した。
塩田は15~16メートル×約200メートルの矩形の周囲を浜みぞでかこったものである。
それぞれ15メートル四方に沼井(ぬい)が設けられる。
遠浅の干潟を干拓し、その砂地を平坦にする。
満潮の時に海水を塩田の潮まわしと溝渠に入れ、砂の間隙に浸潤させる。
日光と風力で水分を蒸発させ、その一方でひとがくわで砂を反転させ、
十分に着塩させ、2、3日間天日にさらす。
着塩した散砂を沼井(ぬい)に入れ、海水の5~6倍の濃度のかん水を得る。
藻塩焼・揚浜式塩田・流下式塩田等が他に有る。
(Wikipediaより)

※池の中のL字型は~
沼井(ぬい)

こんなに淡水が貯まることは
無かったんでしょうね。
多くの方々が働いたでしょうし~

※右が海峡
左は入浜跡

要塞のように~



海峡の水質は綺麗そうです。

※この水門も
雨水抜きに使われた?

対岸は瀬戸町明神(せとちょうあきのかみ)
鳴門市の東部に位置。讃岐山脈東部、明神川下流に位置し、小鳴門海峡に面する。
国道11号沿いに発達している集落で、南東は撫養町黒崎に、西は北灘町櫛木に通じている。
1998年(平成10年)2月には東の高島(鳴門町高島)との間に小鳴門海峡が開通。
集落は元々は塩田沿いに発達した旧住宅と、東部の小鳴門海峡沿いの元塩田跡に、
急速に増加している新住宅地からなる。
新住宅地は鳴門市明神土地区画整理事業組合のもとで土地造成が行われた地域。
地内にある大元神社は、広島県の厳島神社の摂社である大元神社の分霊を祀る。
古くは安芸神と書いたともいい、地名は村社大元神社が
昔、安芸厳島から分祀したことにちなむと伝わる。
(Wikipediaより)

※全体図
淡水でしょうか?

コガモですかね?

※水鳥の楽園に成ってました。

沼井(ぬい)
高島・三ツ石(鳴門市鳴門町)の塩田では沼井台(ぬいだい)1台につき、
平均夏場で7石1斗(約1280Kg)、冬場で6石3斗(約1140Kg)であった。
冬場の撒砂の量が少ないのは、日照時間が少なく採かん量が少ない(採かん濃度も薄い)為である。
この撒砂を半分ずつ使用する。
半分は塩田面にまき、あと半分は前回の採かん後沼井台から
掘り出して沼井台の両側に積み出してある。
(鳴門塩業株式会社HPより)


※昔は水門で
海水を引き込んでいたとか~

塩田公園水門

※右がポンプです。

南側の庇は低い
台風の影響でしょうか?



この石段使って
積み出ししたんでしょうね。
撫養に塩問屋が有ったそうで~

塩納屋も本瓦で
しっかり作られて~

※このボートが
積み出し用の和船と思えば~

大谷焼の瓶でしょうか?



茅葺屋根が良いですね~

※石垣に歴史あり

こちらの広場も
塩田公園
同じような施設が有ったんでしょうね。

※木戸門も~

この煙突は
ずっと煙を出していたんでは?



右の釜屋から
地下樋でカンスイ溜に
通じていたとか~

※まだ土蔵が有ったそうで~

手前左の草原が
落下式塩田の枝条架跡







※モニュメント?
 
沼井(ぬい)
こんな風に作業されたんですね。
(赤穂民報HPより)

※広い塩田の周りに
点々と民家が~
(鳴門市うずしお観光協会HPより)
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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