古/いにしえの面影       其の一阡四百!!
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2016年05月13日 金曜日
アップ日  2019年03月14日 木曜日
兵庫県神戸市中央区楠町(大倉山)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
春爛漫、エエ天気に誘われて~
大倉山(おおくらやま)は、兵庫県神戸市中央区にある小丘である。
名称は、明治維新の中で御用商人として活躍し一代で財閥を築いた大倉喜八郎が、
安養寺山の約八千坪の土地を買い取り、その後神戸市に寄贈したことに由来している。
兵庫県神戸市中央区の西部に位置し、住居表示上は楠町七丁目に属する。
古くは、安養寺山と称されていた。
(Wikipediaより)
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

湊川神社正面から
前に

※前より参って~

神戸地方裁判所
1904年(明治37年)に建設された赤煉瓦の庁舎(河合浩蔵設計)がファサード保存されている。
1991年(平成3年)、神戸営繕事務所により改築設計。




大倉山公園へ~

※階段上から
見返って~

坂本龍馬
神戸海軍操練所記念碑
神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)は、江戸時代の元治元年(1864年)5月に、
江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により
幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠である。
幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していた海舟の元には、倒幕派の志士も多く集っていた。
この操練所が神戸に出来て以後、漁村であった神戸は港町としての成長を見せ始めるようになる。
それを見越していた海舟は、地元で自分の世話をしてくれた者に
「今のうちに土地を買っておくがいい」と助言したところ、見事に地価が高騰し、
その者は大きな利益をあげたというエピソードがある。
(Wikipediaより)


※名山 富士山之碑
兵庫県静岡県民会創立100周年記念

祥福寺(しょうふくじ)は兵庫県神戸市兵庫区五宮町にある臨済宗の仏教寺院。

祥福寺の宝塔
光村弥兵衛が寄進の宝塔が緑の山腹に景観美を添えている。
(Wikipediaより)

光村弥兵衛 みつむら-やへえ
1827-1891 幕末-明治時代の実業家。
文政10年生まれ。横浜で外国船員相手に小商いをはじめ,
慶応3年開港直前の神戸に移転。
同郷の伊藤博文,井上馨の引き立てで官営事業をうけおい,
明治2年廻船問屋長門屋を設立し
,西日本の海運業界を支配して東の岩崎弥太郎とならび称された。
(コトバンクより)


電子基準点(でんしきじゅんてん)とは測量における基準点、観測点の一つである。
国土地理院は精度の高い測量網、地殻変動を監視するシステムとして
GNSS連続観測システム(GEONET:GNSS Earth Observation Network System)を構築した。
電子基準点は、その観測点(GNSS連続観測点)である。
(Wikipediaより)


※大倉山公園碑
大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、
天保8年9月24日(1837年10月23日) - 昭和3年(1928年)4月22日)は、
明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家、
中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。
東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。
従三位男爵。号は鶴彦。
(Wikipediaより)

克忠克孝碑
教育勅語30周年記念
教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)
または教育勅語(きょういくちょくご)は、近代日本の教育の基本方針として発布された、明治天皇の勅語。
1890年(明治23年)10月30日発布、1948年(昭和23年)6月19日廃止。
(Wikipediaより)


※大正9年銘

西に見える高取山
高取山(たかとりさん)は、兵庫県神戸市須磨区と
長田区の区界に存在する山である。標高328 m。
古名は「神撫山(かんなでやま)」という。
現在は高取山と呼ばれているが、
長田区の民話においては山全体が水没した際に
大きな松に絡んだタコを捕獲したということから「タコ取り山」と名づけられたという説がある。
また、昔には鷹が巣をかけることがあり、
その鷹を捕獲する山の意味で「鷹取山」と呼ばれていたものが、
江戸時代中期以降、山麓地域への年貢の賦課の厳しさから、
「鷹」を「高」に変えたなどともいわれる。
(Wikipediaより)




昭和二年に建てられた
奨武会記念碑

※裏面は発起人名簿
最終役員名も~

大きな台座?
何やろか??

※伊藤博文銅像
1901年に伊藤博文の還暦祝賀会招待者たちが銅像建設を決めたが、
出来が悪かったため作り直すなどして大分遅れ、
1904年10月22日に神戸の湊川神社に伊藤博文の銅像が建てられ除幕式が行われたが、
伊藤がまだ存命であったのに像が立てられたことや、
本来この神社に祭られている楠木正成より目立っていることが
4日後の読売新聞で「嗚呼醜臣軟猿乃図」という挿絵入りの揶揄した風刺記事が載せられる。
この時は揶揄の範囲であったが、日露戦争後の1905年9月7日、
講和条約の内容に不満を持った人たちが大黒座で演説会を開いていた所、
湊川神社まであふれていた気のたった人達が、
工具を持ち込み像の頭を叩いたり鎖(像の周囲にあったものが切断されていた)を
巻き付けて引っ張るなど像を倒そうとしている3人の男を見て感化され、
いつの間にか集まった数十人で像を文字通り引き倒すと
百余名ほどいた群衆たちは面白がって像を引きずり回して暴徒と化し、
通り道の派出所を破壊して回った。
最終的に警官隊によって群衆が追い払われ像が回収された時には、
銅像は「鼻がすりむけ、顔に3か所の穴、頭部はくぼんで全身に打撲傷多数の上、
頭に小便をかけられていた。」という。
像本体以外も周囲の物で前述の鎖の切断、柵の杭になっていた石柱も抜かれて壊され、
発起者名版も潰されているという破損であった。

なお、その後銅像は警官隊が騒動の翌朝、検疫所に使っていた操江(砲艦)に運ばれ、
以後数年間表に出ないまま本人が暗殺されてしまい、
これを機に伊藤の評価も同情的なものに変わったことで、
修繕したうえで神戸市諏訪山公園に再建するべく、1910年2月4日から寄付金を集めたが、
実際は1911年10月26日に諏訪山ではなく大倉山、補修ではなく新造で再建された。
(Wikipediaより)


引き倒された銅像ではなく
新造された銅像なので
台座も立派??

※供出された~
湊川神社の楠正成もでしょうか?

いしずえ
とこしえに平和を
第60回兵庫県統一メーデー実行委員会銘
1990年4月


何やろか?



昭和52年銘
遊於藝
橋本関雪先生之碑
橋本 関雪(はしもと かんせつ、
1883年(明治16年)11月10日 - 1945年(昭和20年)2月26日)は、日本画家。
本名は貫一。
楠木氏一門の橋本八郎正員の後裔である橋本海関・フジ夫妻の子として神戸市に生まれた。
父・海関は橋本文水(播磨明石藩儒)・マサ夫妻の子で学問所詰儒者を務めていた。
父から漢学を学び1903年(明治36年)、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り
1913年(大正2年)と1914年(大正3年)の文展で二等賞。
1916年(大正5年)と1917年(大正6年)の文展で特選を受賞。
帝展審査員を務め1934年(昭和9年)12月3日、帝室技芸員に選ばれる。
1935年(昭和10年)に帝国美術院、1937年(昭和12年)に帝国芸術院会員となる。
1940年(昭和15年)、建仁寺襖絵を製作。
1945年(昭和20年)に没し、画号の由来となった逢坂の関のあった
滋賀県大津市の別邸・走井居(月心寺)の墓地に眠る。
(Wikipediaより)


※湊川神社宮司さん筆?
坂本?

コンサートなんですわ。

※先輩方?が多い~

コンサート後
坂道の街並みを~



開発の大波~



宇治川センター
大倉山の東を流れる川。宇治川(うじかわ) 宇治野川とも。
現在では、地図上残っている唯一の宇治郷関連地名。
下流は暗渠とされ、暗渠の上は、メルカロード宇治と称される商店街になっている。

※宇治郷(うじのごう)は、兵庫県神戸市のかつてあった地名である。
現在では、宇治川にその地名を残す。
八部郡宇治郷は、和名類聚抄(承平年間(931年 - 938年)編纂)摂津国八田部郡の郷の1つとして、
奈良期から平安期に見える郷名。
「宇治」の名の初出は天平十九年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』とされる。
なお、「行基年譜」には、「行基が天平2(730)年に宇治郷に船息院と尼院を建てた」とある。
また、天平15(743)年に「大輪田船息 在摂津国兎原郡宇治」(後の大輪田泊であろう)とある。
船息院は、大輪田船息と関係しているのであろう。
(Wikipediaより)


純神戸肉!



左 ふたたび山道

※こんにゃく製造

此処にも
左 再山道

弘法大師(空海)が延暦23年(804年)に入唐するに当たって、
船旅の無事と学問成就を念じてこの山(当時「摩尼山」と呼ばれていた)に参詣した。
唐から戻った際、無事帰国できたことを感謝すべく、
再び(再度)登山し修行した。この伝説に由来するといわれる。
(Wikipediaより)


お洒落な玄関

※先へ行きたいが~

本願寺神戸別院(ほんがんじこうべべついん)は、
兵庫県神戸市中央区下山手通にある浄土真宗本願寺派の寺院である。
同派本山の西本願寺(京都市)直属の別院である。「モダン寺」の愛称でも呼ばれている。
その昔、摂津国八部郡二つ茶屋村に寺舎が築かれ、
寛永十六年(一六三九)年に第十三代良如宗主より寺号を授与された善福寺を前身としている。
1917年の本堂焼失後、大谷光瑞、大谷尊由らの手により復興が進められる。
尖塔や壁面彫刻などインド様式を取り入れた斬新な建築様式で知られ、
異国情緒豊かな5つの尖塔とステンドグラスが非常に美しい。
本堂の前には親鸞聖人のブロンズ像が建立されている。




どや!



震災の影響も薄らいで~



JR東海道線高架下


やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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